館長室

海洋堂シマントミュージアムビレッジ

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館長

◎富獄遠望
2017年02月24日

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2月18日、新幹線で上京する時、静岡付近に差し掛ると、富士山がよく見えます。

葛飾北斎の「富獄三十六景」ではないけれどむかしから、日本人の憧れの山でした。

冬の風のつよい日、とくに低気圧の前日などは、空気が澄んでいるので、くっきりした容姿がみられます。

18日の往路の富士山より、帰路の20日の富士山はより鮮明で美しく思われました。これまで上京する度に眺めて参りましたが、これほど鮮やかな富士山を眺めたのは、はじめてでした。

富士山で想い出すのは、68年ほどまえ東京湾から眺めた富士山です。その当時三崎のビンチョウマグロの延縄漁船に漁師として乗り組んでいました。

三崎沖のビンチョ縄船というのは、冬の大荒れの海で操業することでも、その名を知られていたようです。

過酷な39屯という小さなマグロ船に、都会育ちのひょろひょろなわたしが乗組んだのですから大変でした。毎日大荒れの海で、一日5回も6回も船酔いで吐きつづけ、胃液に交って血の滲むこともありました。

東京湾を船出する時、富士山がくっきり見えた時は、漁師たちは怖れました。それは低気圧の前ぶれであり、海が大荒れする予告でもあったのです。

三崎沖のビンチョ縄船のことは、いつか綴りたいと考えています。わたしも、いろいろな漁船に乗り組みましたが、7日間もぶっ通しで船酔いしたのは、その時だけでした。

それにしても、2月20日の富士山は頂きに雪を被り、裾野にうすい白雲を引いて、まるで絵に描いたような霊峰富士の容姿でありました。

「富士は日本一の山・・・」という童謡が想い出されるほど、すばらしい富士山を見せて頂きました。

2017/02/24 | 日々日

館長

◎村上さんから頂いたアイデア
2017年02月23日

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ワンフェス会場の控え室に、久し振りに村上隆さんが現われました。

昨年のお正月に六本木ヒルズで開催されていた「五百羅漢図展」以来です。村上先生をお迎えすると、わたしもなぜか緊張するぐらいのオーラがあって、さすが村上さんだ!と嬉しくなります。

たまたま3月から開催するかっぱの砦の「山本祐市木彫展」に話が及び、「山本さんにかっぱばかりつくってもらうだけではなく、五百羅漢を木彫で表現したら・・・」というアドバイスを頂きました。

「五百羅漢か?」と意表をつかれたわたしは、そうか?かっぱばかり考えていただけに、大反省いたしました。

「館長、五百羅漢を木彫で・・・となれば、いろいろな形で注目されるし、かっぱの砦のPRにもなるのではないでしょうか?」さすがは村上さんです。目のつけどころが違います。わたしはそのアイデアを頂こう!と考えました。

昨年、六本木ヒルズで開催された「五百羅漢図展」は、全国的な話題となり、大変な観客動員数でした。

河童、かっぱと、かっぱづくしで、かっぱだけを念頭においていただけに、わたしも歳をとったんや?と少々情無く思いました。

「五百羅漢を木彫でつくれば、皆さんあっと言いますよ。山本さんという木彫作家がいるのですから・・・」かんたんに言って下さいますが、それはすばらしいアイデアなのです。

四万十のかっぱの砦に、五百羅漢の木彫立像が制作されつつある!というだけで、多くの人々の想像力をかき立てずにはおかないでしょう。

早速アイデア頂戴とばかりに、村上流五百羅漢の木彫づくりをお願いしようと考えました。わたしの脳細胞は健在だ!と自慢していても、硬化現象?しているのでは?と少しばかり反省させられました。村上さんに脱帽です。

2017/02/23 | 日々日

館長

◎ワンフェスへ行く
2017年02月22日

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ワンダーフェスティバルを略して(ワンフェス)と言っています。

ワンフェスは、千葉の幕張メッセの全館(8ホール)を借り切り、2017年2月19日に開催いたしました。年に2回、冬と夏に開催されています。一日の入場者は約6万人という世界最大のホビーの祭典といわれています。

すでに20年以上開催されていますので、わたしたち夫婦は、40回以上欠かさず上京しているのです。

ホビーの祭りですから、初めの頃はマニア的な若者が主体でした。しかし、今は高齢者や、女性なども毎回増えて活気づいています。

なぜ高齢者が増えているか?と申しますと、60歳前後の人たちは、子供時代にプラモケイなどに親しんだ世代であります。それらの世代がなつかしんで来られるというケースも多く賑わっているように思われます。

89歳にもなると、東京へ行くのは億劫にならないか?とよく問われますが、わたしたち夫婦は、習慣づいているのでしょう。ワンフェスへ参加するのは、苦にならないのです。

義務的な場所へ行くのであれば、おそらく足を踏み出さないでしょうが、多くの若者と出会えるだけでも楽しみになっているようです。それで何の抵抗もなく、新幹線に乗り込み、千葉の幕張メッセへと足を運びます。

最近は、どこへ参りましても「お元気ですね?」という挨拶を頂きます。わたし共夫婦には、年寄りという意識と申しますか、感覚が欠落しているのかも知れません。

ワンフェス会場では、なつかしい人や、新しい若い人たちとの出会いもあり、老化しつつある足腰もシャン?とするから不思議です。タクサンなパワーを頂いているのでしょう。

冬のワンフェスも、無事元気で参加できました。次は夏のワンフェスですが、7月30日にもきっと参加できると思います。

時代がどのように変化しても、手指を使ってモノづくりすることは、廃れないでしょう。会場には、その魅力がいっぱいですから・・・。

2017/02/22 | 日々日

館長

◎昭和を生きた人々
2017年02月21日

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「昭和を生きた人々が少なくなりつつある」とわたしもよくブログに綴りますが、先日文芸春秋の2016年9月号を何気なく手にとると、「戦前生まれ115人から日本への遺言」―焼け跡で見た光景、戦後復興のエネルギー、バブルの沈滞、近隣諸国との摩擦……この国はどこへ向かうのか、日本を憂う苦言、提言、諫言……。

 

わたしも昭和を生きた人間として、最近の日本はいささか危ない状況になりつつあるように思っているので、走り読みではあったけれど一応は目を通しました。

昭和を生きた人々だけに、それぞれの思いが語られてはいます。今の状況を憂う気持はあっても、平成をくぐりぬけて、やや軟化しているようにも感じられました。

先般アメリカ大統領が当選して、いろいろ物議をかもしていますが、日本の総理大臣がいち早く、尻尾を振るようにアメリカへゆき、会見したと大々的に報じられていました。

アメリカ大統領の資質なり、行動なりを見据えてからゆっくり会見に臨んでも……と思うのですが、その跳ね馬のようにいち早くとび乗るというのは、先の大統領に対しても信義を失する行為だとわたしは思うのですが?

東京都の小池知事と石原前知事にしても、余りにも醜いやり取りのように思います。昭和を生きた石原前知事の歯切れの悪さは、平成に毒されているように映るのは、昭和を生きたわたしとしては許せないように思います。

昭和を生きたものでも、平成をくぐり抜けると、昭和の気概をなくしてしまうのか?と情けなく哀れであります。

「戦前生まれ…」を走り読みして、その思いは伝わってはくるものの、平成の時代に毒されているのか?などと考えてしまいます。

動物園の子象も、母象に育てられないと、その子象は子育てを放棄するそうです。人間社会でも、そのようになりつつあります。「日本への遺言」を読んでも、余りにも憂うる気持ちがないのは、ある意味での衝撃を受けました。

2017/02/21 | 日々日

館長

◎無手無冠
2017年02月20日

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「朋友逝く」というブログでも綴りましたが、高知の四万十町の大正にある「無手無冠」という酒造会社の社名は、故山本さんが選ばれたと聞いています。

四万十の栗から発想して、栗焼酎を開発された山本さんは、一躍有名になりました。栗焼酎をつくり「無手無冠」で名を上げた山本さんは、お人柄もやさしくまた友情にも熱いものがありました。

わたしも53年まえ、大阪の守口に一坪半のちっちゃなプラモ屋をオープンさせた時、「海洋堂」というとてつもない大きな店名を付けました。自分ながら頭でっかちな店名だな~と気恥ずかしく思ってもいました。

その「海洋堂」も53年経って、日本だけではなく、世界にまで知られるようになって、はじめて、その時の命名は間違っていなかった?と思うこの頃であります。

そのような意味からも、「無手無冠」という社名は、奢ることもなく、そのかわり何事にも動じない、いごっそうの気概を貫いているのですから、初めて聞いた時、凄い社名だ!と感動したものです。

社名というものは、その会社の夢なり、方向性を決定づける不思議な牽引力があり、いろいろなアイデアを加えつづけてくれるもののようです。

「無手無冠」という静かな表現は、時には激しく、勢いよく突き進むという力も内包している社名であります。

栗焼酎を四万十時間という長い間、洞窟の中でねかせる特別なものは、絶品として多くのファンの垂涎の焼酎といわれています。

一見おだやかな故山本さんには、アイデアと激しいいごっそう魂が同居していて、栗焼酎を識るもののみが絶賛する稀な焼酎なのです。

祝い事がある度に、その貴重な壺をプレゼントして頂き、何壺も残っています。その壺を眺める度に「無手無冠」を商品化した故山本さんを偲んでいます。

2017/02/20 | 日々日

館長

◎カツオ漁の不振
2017年02月17日

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先日の高知新聞の一面記事として、カツオ漁の不振が掲載されていました。

カツオ漁の不振は、これまでも報道されてはいましたが、沿岸の曳き縄まで不振とは大変な状況です。

カツオは春先から黒潮と共に北上するのですが、最近はそのカツオの群れが小さくなりつつあるようです。

わたしも終戦後のある時期、カツオの一本釣り漁師をして、黒潮の狩人をしていましたので、カツオ漁の不振をああそうか?と聞き流す訳には参りません。

わたしが一本釣り漁師をしていた頃は、黒潮の海に出ればカツオの群れに出会いました。大袈裟なようですが、水平線の向こうまで、海いっぱいの大群も珍しくありませんでした。

何十年もまえから、カツオの群れを一網打尽にして獲りつくす捲網船団が漁場を荒して物議をかもしていました。

それもまだ日本の捲網船団だけでは、余り問題にはならなかったのですが、それら捲網船が古くなれば、台湾や東アジアの業者に売り渡します。

するとそれらの捲網船が、南の海で若いカツオを獲ってしまうのです。そこで黒潮にのって北上していたカツオの群れが激減してしまうという現象が起っているのです。

カツオだけではなく、マグロなども少なくなり世界的な問題になっています。よくよく考えれば、その元凶はすべて日本にあると申しても過言ではないでしょう。資源が少なくなって騒いでも、それは取り返しのきかない状況といえるでしょう。

カツオを県魚にまでしている高知県であれば、今更慌ててみても……そこで資源を回復するために、何をしなければならないか?を考えるべきです。

政府や国に話しかけ、南の海で獲ることを制限しなければ、カツオ資源の枯渇するのは時間の問題でしょう。

土佐のタタキが食べられなくなる日が、目の前にきているのです。どう思われますか?

2017/02/17 | 日々日

館長

◎へんぴなミュージアム
2017年02月16日

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6年前に創ったチラシが出て参りました。

この広告は、迫田さんが気合いの入っていた頃のケッ作であると、今でもそう思っています。

海洋堂フィギュアの動物作品を、このように巧みに並べたチラシはこれまでなかったものです。

海洋堂ホビー館オープンした時の、スタッフの意気込みが思い出されます。四万十の大自然の中に、忽然と出現したミュージアムには、高知県の皆さんが驚きました。

もっとはやい時期に充実し、増殖している筈でしたが、それを阻んでいるのは、何と申しましても「へんぴな」場所であります。

わたしには「へんぴな」場所が全国各地の人々に受け入れられ、より多くの人々を招致できるという甘さがありました。「へんぴな」処にわざわざ訪れて頂くためには、それなりのすばらしさ、凄さがなくてはならないのです。

その難しさが、今頃になってようやく理解できるようになりました。そこで「へんぴな」ミュージアムとは何か?を示さなくてはならないでしょう。

大阪から四万十へ、毎月のように通っているわたしでも、6キロの山の道を帰る時は、いつも、このようなへんぴな場所に、何で設けたのか?わからなくなることがあります。

八方塞がりとなり、意気消沈した時、このオープン時に創られたチラシを見ますと、もっともっとがんばらなくちゃ!という気になるのです。

ならば、どうすれば「へんぴな」ミュージアムにお越し頂けるのか?これは「へんぴな」場所につくったものの責任であり、やり甲斐でもあります。

「へんぴな」ミュージアムのチラシを見ている限り、へんぴさをどのように活かすかは永遠のテーマであるのです。

あらんかぎりの知恵を絞り出しているか?どれほど努力しているか?が問われています。すべての動物だけではなく巨大なティラノサウルスが走り、館長のわたしはその首根っこに跨って指揮をとっているのです。がんばらなくちゃ~。

2017/02/16 | 日々日

館長

◎高知ゆき欠航
2017年02月15日

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伊丹から高知ゆきの全日空12時40分発の便が、突如欠航になりました。

明日まで四万十に入ればよいとはいえ、高知空港では車で迎えにきてくれているし、空港で立ち往生です。

コーヒーを喫みながら考えたのは、先刻空港まで送り届けてくれた上田君を呼び戻し、四万十へ行くしかないようです。

上田君からは、明日は日曜なので、四万十までも行きますよ!という快諾を貰えたので、彼の運転する車で四万十まで運んで頂くことになりました。

四万十ゆきは、亡くなられた山本さんの葬儀にゆくためでした。これまで12年間、毎月のように全日空の飛行機に乗り、四万十を往復しましたが、欠航など一度もありませんでした。それだけに、これはいたずら好きな山本さんが、欠航したら、わいの葬儀に来れんやろ?といたずらして、試しているようにも思われました。

「山本さん、あんたがいくら妨害しようとも、明日の葬儀までには行くぜよ!当てにせんと待っときや」と、欠航ぐらいでへこたれてはいません。

四万十まで車で走ると、5時間か?6時間は掛ります。ましてや大雪情報などもあるだけに、どうなるか?は運まかせであります。

それでも朋友の葬儀であります。雪の中を車を引っ張ってでも、四万十へ到達せねばならないのです。

途中徳島と高知の県境付近で、かなり激しい雪に見舞われましたが、何とか通過して、高知で待ち合わせしていた妹尾さんと合流して、無事四万十へ到着しました。

その夜は皆んなで山荘に泊まり、翌朝山本さんの葬儀に出席できました。「山本さんどや、えへん」といってやりたい気持ちでした。

山本さんの葬儀は、四万十では珍しいほど盛大で、参列者も多く、山本さんの生前のお人柄や人気を象徴するかのようでした。わたしは、山本さんに話しかけるようにして弔辞を読ませて頂きました。

2017/02/15 | 日々日

館長

◎高知は東西に広い県である
2017年02月14日

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先夜、高知の城西館で、K県会議員の県政報告会があり、出席させて頂きました。

県の観光部からの交際であり、何事にも一生懸命取り組まれるので人気があります。

「清潔・情熱・行動力・高知県が大好きや!!」というキャッチフレーズを、舞台上に掲げています。それを見ると今の国会議員や、町会議員までに見てもらいたいほどです。

四万十の山奥に、ホビー館やかっぱの砦を設けているわたしは、この10年余り高知県に通いつづけているだけに、その日本一の交通不便さにはうんざりいたします。

東西に広いだけに、どの県よりも過疎化の進行も激しいものがあります。東は室戸から、西は宿毛までほぼ四国の半分を占めるお国柄だけに、尾崎知事の行動範囲も半端ではないのです。

それだけに各地域出身の県会議員たちが、どれだけ働き、貢献しているか?値ぶみされるきしさもあります。

すべての県会議員たちが、「清潔・情熱・行動力」をもって、一生懸命に取り組めば、すばらしい高知県になることでしょう。

しかし、そうはならないのが政治と申しますか、カンタンなことがややこしくなり、税金のむだ使いが横行するのです。そしてだんだん面の皮が厚くなってゆくのでしょう。

わたしが四万十で滞在するかぎり、町会議員は勿論のこと、県議などを通して見えてくるものは、何一つなかったように思われます。

町のために、県のためにというこの度のK議員の報告会に出席したわたしは、その一生懸命な対応ぶりを観察して、何かが見えてくるようなものがありました。

K議員の2年間(これは折り返し点)の取り組みを評価して、報告会の盛大さなのでしょう。一生懸命取り組むというのは、県会議員として当り前な仕事ぶりといえましょうが、それができていない議員さん?が多いのです。

報告会に大勢の人たちが集うのは、K議員がどれほどがんばって下さっているかの証といえるでしょう。

2017/02/14 | 日々日

館長

◎朋友が逝く
2017年02月13日

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2月9日、朋友 山本彰宏さんが亡くなられたという知らせが届きました。

予期してはいても、やはりショックです。

昨年末までの寿命と宣告されながら、自宅介護となってそれでも半年ほどは、生きながらえていました。

先月末にお見舞いした時は、寝たきりではあったけれど、少しの反応は見せてくれていました。手は握り合っては参りましたが、逝くことは覚悟していました。

「無手無冠」会長としてよく知られていたけれど、温厚な方で、人の世話もよくされ人望家でありました。わたしとは、馬之助神社との縁で友情の絆を持ちました。

わたしより10歳ほど年下でありましたが、初対面からウマが合い、12年ほどの交友となります。打井川へ海洋堂ホビー館を設ける際にも、地元の人たちとわたしの間に入っていろいろご苦労をお掛けしました。

山本さんがいなければ、ホビー館も、かっぱ館も設けてはいなかったでしょう。それだけに、つよい友情と、昭和を生きた男としての心意気を感じていました。

亡くなったと聞けば、それだけの覚悟はしていたものの、やり切れない寂しさというよりは、空しさのようなものが募ります。

四万十にお互いを理解し合える朋友がいなくなったということは、悲しみというよりはこの世の無常を感じます。

昭和を生き抜いた男たちが次々に亡くなっていくのは、寂しく、辛いものがありますが、89歳のわたしにとって不思議な感慨があるのです。

お互いに馬之助さんによって交わりを持ちながら、神社をほったらかしという訳にも参らず、それはわたしの役割としていつか、必ず完遂して、わたしなりに盟約を果したく思います。

これだけは、わたしもすぐにつづきますよ!などという訳には参りませんが、わたしは少しでも生きのびて、残された夢を手許に引き降ろさなければならないのです。

山本彰宏さんのご冥福を念じながら・・・9日の夜

2017/02/13 | 日々日

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